2009年06月15日

伝統的なイカの塩辛は、大きく分けて以下の3種類

スルメイカを使うことが多い。

伝統的なイカの塩辛は、大きく分けて以下の3種類に分類できる。

白造り - イカ肉と塩のみで発酵させる。見た目は刺身に近く、白い。
赤造り - イカ肉、肝(内臓:中腸腺)、塩を混合して発酵させる。仕上がりは赤い。最も一般的な形。
黒造り - イカ肉、肝(内臓:中腸腺)、イカスミ、塩を混合して発酵させる。仕上がりは黒い。利用は一部の地方のみ。富山県などが産地。
発酵に要する時間は下にいくほど長くなる。また、うま味も下にいくほど濃厚である。
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イカの塩辛の発酵は微生物による働きに加え、内臓(おもに中腸腺)に含まれる消化酵素によって自己消化が起こり、アミノ酸が生成する働きも重要な役割を果たしている。塩分は伝統的な製法の場合8-12%程度、近年の大量生産品は4-8%である。

アミの塩辛は、日本の有明海沿岸、中国、香港の長洲島、マカオ、韓国など東アジア各地で作られ、調味料として使用される。ここで多用されるのはアキアミやその近縁種だが、これらは厳密にはアミではなくエビの仲間である。イサザアミ(アミ目)やツノナシオキアミ(オキアミ目)などの塩辛も存在するが、アキアミほど流通していない。

香港のものは「蝦醤」(ハージョン)といい、野菜の炒め物やスープの調味に使われる。中国浙江省寧波では、ゆでた里芋につけて食べる。

韓国ではセウジョッ(???)といい、キムチを漬ける際に、発酵を促進し、アミノ酸のうま味を加える目的で使われる。

フィリピンではバゴーン(bagoong)といい、料理の調味に使われる。特にカレカレ(en:kare-kare、牛テールと野菜をピーナッツソースで煮込んだシチュー)の調味には欠かせないとされる。

食べ方 [編集]
居酒屋などではそのまま、あるいは大根おろしなどと合わせ酒肴として出す店が多い。家庭では、ご飯にのせて食べたり、茶漬けにする例がある。蛋白質が分解されてアミノ酸を生じ、旨みを含むことから、鍋料理などの隠し味として加える例もある。北海道では蒸かしたジャガイモにイカの塩辛を乗せて食べることもある。近年はキムチ塩辛なども販売されている。

2009年05月30日

永光院

永光院(えいこういん、寛永元年(1624年) - 正徳元年10月11日(1711年11月20日)は、江戸時代の女性、江戸幕府3代征夷大将軍徳川家光の側室である。公家の六条有純の娘。弟は高家となり幕府に仕えた戸田右衛門氏豊(旧姓:六条)。名は万。本姓源、諱は満子とされる。母は旗本戸田為春の娘で養父は大垣藩主戸田氏鉄である。

初めは伊勢慶光院の院主だったが、寛永16年(1639年)に家光に謁見した時に見初められ、春日局によって大奥入りする。還俗後は万と名を改め、家光の側室となる。このとき、髪が伸びるまで田安屋敷に留められたという。家光に深く寵愛されるが、子を儲けることはなかった。徳川将軍家では三代家光以降慣例となった五摂家または宮家出身の御台所(将軍正室)で次期将軍生母となった人物は存在せず、それ以外でも天皇家・公家を外戚に持つ将軍が誕生しないよう大奥が管理していたとされるが、父・六条有純が参議に過ぎない側室の万も決して例外ではなく、妊娠するたびに堕胎薬を盛られていた、あるいは不妊薬を飲まされていたという俗説もある。但し家光が寵愛していた事で格別の扱いを受けており、大上臈の扱いを受けていたという。

春日局の死後は家光より「春日同様」に奥向きを取り締まることを命じられ、春日局の後任として大奥の支配者となった。 慶安4年4月20日(1651年6月8日)に家光が死去した後は、他の側室達とは違い落飾せず、「お梅の局」と名を変え、大上臈として再び大奥勤めを始めたといわれているが、実際の彼女のそれ以後の経歴はほとんど伝わっていない。お梅の局という人物も別人だとする説もある。 しかし、明暦3年1月18日(1657年3月2日)に起きた振袖火事(明暦の大火)で江戸城の本丸が焼け落ちてしまい、家光の正室の中の丸(鷹司孝子)と共に小石川の無量院に避難したとされているので、少なくともこの頃までは大奥に居たと思われる。正徳元年10月11日(1711年11月20日)、88歳で死去。

菩提寺は東京都文京区小石川の無量院。

家光は彼女の弟の六条右衛門氏豊を召し出し、高家に任じた他、従四位下侍従土佐守に叙し、母家である戸田の姓と千石の知行を与えた。その後、さらに千石を与えている。
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永光院はテレビドラマや小説の影響で才色兼備で性格の良い女性だというイメージがあるが、実際には家光時代後期の大奥の支配者であり、新御殿造営時の役人の不手際を将軍に逐一報告したり、幕閣の反対を押し切って大奥にて猿楽(能)を催したりしたとされ、このために幕閣から「第二の春日局」と恐れられたという。 また、春日局が築き上げた質実剛健な武家風の奥向きを、永光院は華美で豪奢な京都の公家風に改めていったという。 永光院を裏で操っていたのは春日局の姪・祖心尼であったとする説もある。

2009年04月26日

黄巣(こうそう)

黄巣(こうそう)は唐代の反乱指導者。唐に対し、反乱を起こし、事実上唐を滅亡させた。曹州・冤句県(山東省・河南省の境目)出身。

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黄巣は若い頃は官吏を目指していたが科挙に何度も落第し、諦めた後は私塩の密売に関っていた。874年、同じ塩の密売人であった王仙芝が挙兵するとこれに参加し、反乱軍の重鎮となった。塩の専売は当時の国家にとって非常に重要な財源で、財政が悪化すると値が引き上げられる。これに対し塩の密売業者が安い値段で売っても巨額の利益が上がり、さらに安く売ってもらった民衆からは感謝されて、政府からの取締りが来ても民衆が庇ってくれる事が多かった。既に傾いていた唐は塩の値段を吊り上げ、その事で各地に黄巣達と同じような密売業者(政府は塩賊と呼んだ)がたくさんいて、黄巣達の反乱は瞬く間に規模が大きくなった。

途中で黄巣と王仙芝(後に王仙芝は殺害される)は分裂し、黄巣軍は各地を転戦し、878年に広州を落とし、880年には洛陽・長安を相次いで陥落させ、僖宗は蜀へと逃げた。長安に入った黄巣は国号を斉として、皇帝と称号した。だが、黄巣軍には政治を取れるものはおらず、無闇に略奪を繰り返し、また黄巣自身も唐の高官を大量に殺害するなど悪政が目立ち、民心は次第に離れて行った。この中には江南に逃亡した学者として著名な皮日休もいた。

この状態に見切りを付けた黄巣軍の幹部の朱温は蜀の唐政府に寝返り、さらに突厥沙陀部の李克用も参戦したために黄巣軍は長安を追われた。その後何とか頽勢を挽回しようと試みたが、884年の夏5月に中牟県の北にある王満渡の決戦に敗れた。同時に部下の尚譲の裏切りで黄巣は瑕丘(山東省兗州市)を経て、故郷に近い泰山付近の狼虎谷に逃亡した。そこで、黄巣は甥の林言に介錯させて自害した(林言は叔父の首級を唐将の時溥の所に持参する途中で、沙陀部の軍隊に殺害され、その首級を奪われたという)。その後も小規模の乱が続いたが間もなく鎮圧された。この乱は初めは王仙芝が起こした事項だが、黄巣の名を取って黄巣の乱と呼ばれる。

この乱により全国王朝としての唐は実質上滅び、春秋時代の周のように一地方政権へと下落した。この後、黄巣軍から出てきた朱温が907年には唐を滅ぼすことになる。

2009年04月10日

チャック・ベリー

チャック・ベリー(Chuck Berry, 1926年10月18日 - )は、アメリカ合衆国のロックンロール・シンガー、ギタリスト。リトル・リチャードやジェリー・リー・ルイス、バディ・ホリー等と並びロックンロールの創始者のひとりと言われている。

特徴的なギター・リフを使ったその音楽のスタイルは、後のロック・ミュージシャン達に多大な影響を与えた。また、社会的メッセージがこめられた歌の数々は1950?60年代当時の若い世代の共感を呼んだ。80歳を超えた現在も現役でステージ活動を続けている。

ベリーを敬愛していたジョン・レノンは、「ロックンロールに別の名前を与えるとすれば、それは『チャックベリー』だ」と発言している[
ベリーは1926年、6人兄弟の3人目の子供としてミズーリ州セントルイスで生まれる(一部の伝記では、カリフォルニア州サンノゼ生まれとする説もあり)。父親はバプテスト教会の執事も務める建設請負業者で、母親は教師というセントルイスの中流家庭で育った彼は幼少時から音楽に興味を示した。6歳の頃から聖歌隊に加わり、高校時代には初めて人前で演奏した。一方、不良仲間の影響を受け、様々な悪事に手を染めた。高校卒業直前の1944年に自動車強盗の罪で感化院へ送られるが、1947年に釈放された。

経歴 [編集]
1953年、ピアニストのジョニー・ジョンソン率いるサー・ジョン・トリオにギタリストとして加入する。間もなく、ジョンソンにかわってベリーがこのバンドのリーダーとなった。彼のステージを見たマディ・ウォーターズの口利きによって1955年、チェス・レコードと契約し、シングル「メイベリーン」(全米5位)でデビューした。独特のギター奏法とギターを弾きながら腰を曲げて歩く「ダックウォーク」が話題となった。

1956年にはシングル「ロール・オーバー・ベートーヴェン」(全米29位)等がヒット。1957年、最初のアルバム『アフター・スクール・セッション』を発表した。シングル「スクール・デイズ」(全米3位)、「ロックンロール・ミュージック」(全米8位)等がヒット。翌1958年には2枚目のアルバム『ワン・ダズン・ベリーズ』を発表し、シングル「スウィート・リトル・シックスティーン」(全米2位)、永遠の名曲「ジョニー・B.グッド」(全米8位)、「キャロル」(全米18位)等がヒットした。1959年には3枚目のアルバム『ベリー・イズ・オン・トップ』を発表した。

いくつかのヒット曲を発表し、公演旅行を行った後の1959年12月、ベリーはメキシコで出会った14歳のウェイトレスを連れ回し売春を強要した容疑で、マン法(Mann Act, 不道徳な目的のために女性を州境を越えて移動させることを禁じる)に違反したとして逮捕された。ベリーには有罪判決が下り、懲役5年と5,000ドルの罰金が命じられた。

やがて、ロックにとって最初の闇の時代が始まった。エルヴィス・プレスリーの徴兵とリトル・リチャードの引退(1958年)とバディ・ホリーの事故死(1959年)が重なり、さらに翌1960年にはイギリスでも、エディ・コクランとジーン・ヴィンセントが交通事故に遭い、コクランが死亡している。ベリーに対する懲役5年の判決は後に3年に減刑されたが、マン法はベリーのようなアーティストたちをねらい打ちするための法律とも言われており、その逮捕と判決には黒人差別意識も少なからず影響したものとされる。ベリーは刑に服した後1963年に釈放された。

3年間の刑務所生活があったにも関わらず、ベリーはデビューからの10年間で30枚以上のシングルを発表し、1960年には4枚目のアルバム『ロッキン・アット・ザ・ホップス』を発表している。しかし、必ずしも全てがヒットとなった訳ではなかった。1964年、ビートルズやローリング・ストーンズ等の人気バンドがベリーの曲をカバーした[2]ため、ベリー自身の人気も再浮上し、シングル「ネイディーン」(全米23位)、「ノー・パティキュラー・プレイス・トゥ・ゴー」(全米10位)、「ユー・ネヴァー・キャン・テル」(全米14位)等がヒットした。

1972年、アルバム『ロンドン・チャック・ベリー・セッションズ』(全米8位)、シングル「マイ・ディンガリング」(全米1位)、「リーリン・アンド・ロッキン」(全米27位)がヒットした。

1979年、脱税の罪で逮捕されるが、年内に釈放された。

1981年には、初の来日コンサートを行っている。

1986年、ロックの殿堂入りを果たした。殿堂では「ロックンロールを創造した者を一人に断定することはできないが、それに最も近い存在はチャック・ベリーである」としている[3]。

また同年、キース・リチャーズがオールスターのバンド・メンバーを集め、ベリーの故郷セントルイスで、生誕60周年記念コンサートが行われた。このときの様子は、テイラー・ハックフォード監督によって記録され、翌年映画『ヘイル!ヘイル!ロックンロール』として公開された。ひとりのファンとしてベリーの音楽を記録したいというキース・リチャーズの熱意が感じられるのと同時に、ベリーの破天荒な性格が伝わる興味深い内容となっている。

2000年、舞台芸術分野における貢献者に与えられるケネディ・センター名誉賞を受賞した。2003年には、「ローリング・ストーンの選ぶ歴史上最も偉大な100人のギタリスト」に於いて第6位にランク付けされている[4]。

2005年、著作権を侵害されたとしてカラオケ業社3社を訴えた。2008年には、日本テレビ開局55年のキャンペーン「日テレ55」にて「Johnny B. Goode」の替え歌を自ら披露している

カニュ デルタ アルベド プロシ ドハウツー ドワイン ドッグカ プレート セレフ ちくせい ファック ろっか クロス ティア パズル データ バビロン ジョドパー ニヒリ ドライ スパーク イカット パプア セコイア 道のかなた あみん ロポリス ラバード トニク ヘリオト ドリーム ナビタフ フリクシ 星屑 イメチ 栗マロン テネシー マクラ トランサー ドルーズ ロボット ルーティン 美しい コロラド デイジー すうせい スパコン キンカン ぴーたん れんが

2009年03月26日

コスモス (玩具メーカー)

コスモスは、玩具メーカーとしては規模は小さかったものの、1977年より自社で生産した小型の玩具をカプセル式自動販売機(カプセルトイの一種・当時の俗称では「ガチャガチャ」ないし「ガシャガシャ」)にて販売していた。なお1977年はバンダイも同種の自動販売機による玩具販売を始めた時期にあたる。

同社の主力となったガチャガチャは駄菓子屋の店頭などに設置され、この多くでは高価な電子ゲームやデジタル腕時計ないし人気のあるキャラクター商品が当たるとして子供らの射幸心を煽っていた。人気商品にはスーパーカー消しゴムやキン肉マン消しゴムなどがあったが、知的財産権に関しての認識が甘く、数多くのコピー商品を販売していたことでも知られる。例えば機動戦士ガンダムのコピー商品として申し訳程度に名前を変えただけの「宇宙戦士ガンダム」シリーズや、さらにはガンダムを模して独自路線に突入した「ダンガム」シリーズ[1]などがあり、ほかにもなめ猫やルービックキューブなど当時時代の流行となった様々な製品のコピーを販売していた[2]。

コピー商品として、当時製菓会社のロッテのヒット商品であるビックリマンシールの模造品であるドッキリマン(ロッチとつけて販売していた)のシールを販売、これが「ニセモノ」や交換に伴う「インチキ」だとして子供同士の喧嘩を誘発させたりいじめに発展したりなど問題となり、消費者からの苦情を受けたロッテ側から1987年に訴訟を起こされた。しかし翌1988年に同社は倒産しており(訴訟を察知しての計画倒産とも言われている)、事件も有耶無耶のうちに終わっている。なおこのニセシール騒動は、コロコロコミック連載の『少年ビックリマンクラブ』(なかのともひこ)でも取り上げられている。

最盛期には50を数えた販売子会社のうち栃木県宇都宮市にあるヤマトコスモス[3]が営業を続けてるため、栃木県には購入可能な自動販売機がいくつか残っている。
きたみびお 浮草ぐらし ウェッジ ビーピー ツベル タイマー ビヤマハギ フロマ シケイン フリーラジ マスタ わかくさ ハイネッ パラ プロテス ロンネット ソリテー マンス スライド バヌア マート びばい フレアスカ ドトイ ラッシュ ライム ワインバ ナポリタン インゴット リッピン ウェル バター ドグマ とうりゅう スロット モラリ トレジャ フラッシ ヒマワ チャロ ムック テスト パネラー ダース サイト ジャッジ エタイ マッピング 露の契 フェージュ

自動販売機では手動式の20円タイプ、50円タイプ、そして100円タイプがあった。コスモス社の大きな特徴として、それまでのガチャガチャ(一部地域ではピーカップとも呼ばれた)がすべてインカプセルでの販売だったのに対し、カプセルに入らない大きな景品(例えばヌンチャク、モデルガン、カイト等)を「当り玉と交換」という手法を取り入れ、一気に当時の子供たちの心を掴んだ事にあり、それが同社の全国展開への大きな要因となった。100円タイプはほぼ当りだけであったが50円や20円のタイプは専ら安価であろうスーパーカー消しゴムやキャラクタースタンプ、キャラクター消しゴムなどをそれぞれの単価によって「ハズレ」として使用していた。しかし、中には高価な景品に射幸心を煽られ、「当たり」を得ようとして親の財布から金銭を盗んだり、身の回りの物品で機械を騙そうとする・果ては機械を壊して中身を奪おうとする者まで出て、PTAをはじめ保護者層から問題視する声も度々上がっており、しつけに厳格な家の子供ともなると、これで遊んでいるだけで叱られることすらあった。

同社は人気商品の安価なコピーを作って流行に便乗する形で収益を伸ばし、最盛期には従来の手動式カプセル自動販売機に代わって紙箱式自動販売機を投入、これは一見電動式自動販売機に見えるが内部は当時の米国のタバコ自販機を模した物で実は「手動式」。またアーケードゲームが人気を集めるとゲーム業界に参入するべく自社でアーケードゲーム機を開発したが、コナミの『スクランブル』のキャラクターグラフィックを差し替えただけのデッドコピー作品『フライングトレイン』であったりといったことも、同社がテレビ放映したCM内で見られたという。

テレビCM [編集]
同社はテレビアニメ『魔境伝説アクロバンチ』などのスポンサーにもなり、テレビCMを流していた。この中でよく知られているものでは「白ボカシされたコスモス畑の中を全裸の白人少年少女(複数)が走る」があり、バックグラウンドは「僕らも?ほしい?コスモス?」というコーラスであったほか、画面下には「類似品にご注意ください」という趣旨のキャプションが入れられていた。

2009年03月10日

マチュ・ピチュ(Machu Picchu)

マチュ・ピチュ(Machu Picchu)は、現地語では「老いた峰」の意味で、よく保存されたインカの遺跡である。ペルーのウルバンバ谷 (Urubamba valley) に沿う高い山の尾根(標高約6,750ft、2,057m)に位置し、山裾からはその存在を確認できない。しばしば《インカの失われた都市》あるいは《空中の楼閣》と呼ばれる。この遺跡には3mずつ上がる段々畑が40段あり、3,000段の階段でつながっている。遺跡の面積は約13Km2で、石の建物の総数は約200戸が数えられる。マチュ・ピチュには未だに解明されていない多くの謎がある。

熱帯山岳樹林帯の中央にあり、植物は多様性に富んでいる。行政上クスコと同じ地域に属している。現在ペルー国内では10ヶ所あるユネスコの世界遺産のうちでは最初にクスコと同時(1983年)に指定された。
イェール大学の歴史家であるハイラム・ビンガムは、1911年7月24日、この地域の古いインカの道路を探検していた時、山の上に遺跡を発見した。
ビンガムは1915年までに3回の発掘を行った。彼はマチュ・ピチュについて一連の書籍や論文を発表し、最も有名な解説「失われたインカの都市」がベスト・セラーになった。この本は、ナショナル・ジオグラフィック誌 が1913年4月号のすべてをマチュ・ピチュ特集にしたことで有名になった。また、1930年の著書『マチュ・ピチュ:インカの要塞』は廃墟の写真と地図が記載されており、説得力のある決定的な論文となった。以後、太陽を崇める神官たちが統治したとか、あるいは太陽の処女たちが生贄にされたといった定説が形成された。

マチュピチュとは間違えて付けられたといわれている説がある。遺跡に名前は決まっておらずビンガムが地元民にあれは何かと聞くと地元民は今、立っている山の名前を聞かれたと思いマチュピチュと答えたため、この遺跡はマチュピチュという名前なのだと間違って伝わったとされている。

ビンガムはイェール大学の教職を辞してから、コネチカット州の副知事、知事を経て上院議員になったが、彼のインカ調査への影響力は死後も40年近くにわたって強く残った。それは一つに彼の情熱的な文章のせいであった。

ただし、最近になり、マチュ・ピチュはすでにペルー人が発見していたという説が浮上した。それによると、クスコの農場主アグスティン・リサラガが、ビンガムより9年早い1902年7月14日にマチュ・ピチュを発見したという。真偽のほどは今後検証されるであろうが、ビンガムの息子がその事実を述べているということ、またこの人物について複数の証言があることからも、事実である可能性は高い。

最近の研究成果
一方、第一人者としてのビンガムのマチュ・ピチュに関する発表や仮説がその後の研究の妨げになっていたのも事実である。

イェール大学のピーボディ博物館の館長リチャード・L・バーガー(Dr.Richard L.Burger)、並びにルーシー・C・サラザール(Dr. Lucy C.Salazar)らによれば、マチュ・ピチュはスペイン人によって追い詰められた最後の砦ではないとの結論となった。16世紀のスペイン公文書によれば、わずかに抵抗していた最後のインカ族は、「1572年熱帯の盆地の隠れ家で降伏した」との記述があり、それはマチュ・ピチュのような高地ではなかった。
リーベ フラッ ザイル クチン セドラ タコメ ブラウ レット シスプ じゃくやく ラップワピ デリバリ ツワブキ フリーダム ソート ナビタイア メンマ タルト ガネット スニファー オート スコア えーびー ちょうい たんし ニヒル モップ 国内チュ ティーン ギャレー 幻のユウ ブイゾ シールド パサー タジン ダウンライト コスル ナポリ ヒモパン ジューシー ショー ポニカ いーん リターン パリー トライア バスー 山菜サーチ ヴェリ ローズ

現在では要塞ではなく、東西が断崖のマチュ・ピチュは太陽の動きを知るのに絶好の場所であったことや、インカ帝国では太陽を崇拝し、皇帝は太陽神の子として崇められ、暦を司っていたことから、インカ人が崇めていた太陽を観測するための建物群と推測されている。実際に太陽の神殿は東側の壁が二つ作られていて、左の窓から日が差し込む時は冬至、右の窓から日が差し込む時は夏至と区別できるようになっている。また、処女たちを生贄にしたといわれてきた台座上の遺構もやはり太陽を観測するものであり、インティワタナ(太陽をつなぐもの)という意味の石の台の削りだされた柱は、一種の日時計だったと考えられている。

また、ビンガムがマチュ・ピチュから運搬してきた多数の人工遺物が、1920年代のニューヨーク・タイムズ紙の包装のまま箱に梱包され、イェール大学の地下倉庫で眠っていた。サラザール博士はブロンズの宝飾品、道具類、骸骨片、特に壺について再調査を行った。その結果、壷の様式は全て、15世紀のものであった。墓の埋蔵物については、質素なものが多く、王族ではなく召使のものと推定された。 

ビンガムは、同行した骨学者に「出土した骨は女性の骨が大半だった」との誤った報告を受けていた。チュレーン大学の身体人類学者ジョン・W・ヴェラノ(Dr.John W.Verano)の新しい研究で、骨は男女同じ比率であったこと、多くの家族と幼児が生活していたこと、また処女たちの共同生活を示すようなものはなかったと報告している。骨の分析では、結核や寄生虫のケースが見られ、また、トウモロコシの食生活による歯の損傷も見られるものの、ほとんどは大人で50歳以上の年寄りが多くおり、その結果ここでの生活はかなり健康的であったと判断された。また、骨には戦いの形跡は見られず、平和な生活をしていたと考えられる。幼年期に頭部に巻きつけられたもので頭部の変形しているものがあり、ある者は海岸地域やあるいはチチカカ湖方面からと地域によって異なる文化があったことがわかっており、遠方からやって来た職人たちであろうと推定された。高度な石積みの技術が必要なため、職人たちが呼ばれたと考えられている。王族がマチュ・ピチュで死亡した場合は、そこで埋葬されるよりもクスコに運んで埋葬されたと考えるのが妥当と結論づけられた。
カリフォルニア大学バークレー校のジャン・ピエール・プロツェン(Dr.Jean-Pierre Protzen)建築学教授は、石垣をぴったりと重ねて積む方法は石で石を叩いたり、削ったりしたと考えている。この方法を敲製(ペッキング)という。あらかじめ大きく割った石を、小型の叩石(ハンマー)で連続してトントンと細かく叩いて表面をならしてゆく方法である。この方法は、すでにプレ・インカ(インカ期以前の古い時期)から行われていたことがわかっている。 当時巨石文明が世界各地で見られ、その運搬手段は解明されつつあったが、マチュ・ピチュの場合は傾斜路を造る余地がないため、どうやって5-10tもある巨石を運び上げたかはまだ謎[1]であるとしている。また、「ビンガムの発掘ノートは、何を発掘したかよりも何を食べたか、の記述が多かった」とも公表された。

最近の調査では、地下から焼けた跡が発見されたことなどから、スペイン人による侵略を恐れて住民が町を焼き払った、という説が研究者から指摘されている(『古代文明ミステリー 「たけしの新・世界七不思議」』、テレビ東京、2007年1月3日放送より)。

2009年02月22日

アルトネリコ

シリーズの舞台となる惑星。アルシエル(Ar ciel)とはヒュムノス語で『唯一の世界』を表す。 ちなみに、ヒュムノス語の中央正純律においてソル・シエールを表す際にも『Ar ciel』と表現する。 この惑星の持つ重力は地球のおよそ0.9倍である。 過去に発生した『グラスノインフェリア』と呼ばれる大災害の結果、空は『ブラストライン』と呼ばれるプラズマが充満した空域で覆われ、また大地は粉砕されて『死の雲海』と呼ばれる分厚い雲の層が広がり、生き残った人々は『塔』と呼ばれる巨大建造物とその周辺でのみ、かろうじて生存できる状態にある。 また、アルシエルは『チェロ月』『ヴィオラ月』という二つの衛星を持つ。 『チェロ月』は大きく赤紫色で、『ヴィオラ月』は小さく金色の月である。 ソル・シエールにおいては、これらの月は毎晩交互に昇る(アルシエルの他の地域でも同様かは不明)。
陣取り いなか ストメ ワイス さんぼんぎ アント システイン キーホ ワッシャ ネゴシ メモワ パフェ トーキング マラニッ 筆柿 キーノ テレコズ マヨラ プライ ドアミラ リンクサデ ポート エコロジジー エバー ナフタ レポート エス スキトル オーピー マドラサ スパニ パウダー フィル 夏の稲妻 シグサ ツバル タンゼロ ラスバンド アウトカム 黒い塔 ブルンジ ピエール オーバ タリフ ミンス シェルカ スパラ ヌードル モノクロ ミーシー

なお、『アルシエル』の名前が判明するのはゲーム第2作であるが、第2作発売以前に「さぽている」内において『アルシエル球』というアイテムが登場している。これはアルシエルの『地球儀』であり、いわば『アルシエル球儀』である。

アルトネリコ
シリーズの各作品の舞台となる巨大な建造物(塔)。大地がまだ存在した時代に建てられた音科学に基づいた音の力を増幅し人々に提供する「増幅塔」である。現在では失われたロストテクノロジーが数多く使われており、レーヴァテイル達の詩魔法の力の源である「詩サーバー」として機能している。人々はそれぞれの塔の上及び周辺で何とか生活をしている。アルトネリコは3つ存在し、それぞれ1人の「レーヴァテイル・オリジン」によって管理されている。グラスノインフェリア以降、それぞれの塔は他と隔絶した閉鎖世界を形成している。そのうちエオリアによって管理されている塔の近辺の世界を「ソル・シエール」と呼び、フレリアによって管理されている塔の近辺の世界を「メタ・ファルス」と呼ぶ。尚、アルトネリコのうちフレリアの管理するフレリア塔については未完成であり、詩サーバーとしての機能等は存在せず、その地のレーヴァテイルの内、I.P.D以外のレーヴァテイルは、中継衛星としてのソルマルタを経由し、ソル・シエールにあるエオリアの第一塔に依存する形となっている。

レーヴァテイル
シリーズに共通して登場する、音を力に変える能力を持つ稀少種族。過去に人造的に生み出された種族であるが、見た目は人間と全く変わらず、実際に人間との混血も可能。Y染色体がレーヴァテイル因子の発現を阻害するため基本的には女性しか存在せず、身体の表面には種族の証として、「インストールポイント」と呼ばれる紋章が刻まれている。詩魔法(うたまほう)と呼ばれる神秘の力を操り、「世界と語る」ことができる。全てのレーヴァテイルは、深層意識の中で力の源の「詩魔法サーバー」である「アルトネリコ」と呼ばれる塔(もしくは「インフェル・ピラ」)と繋がっている。

レーヴァテイルは、特別なレーヴァテイルであるレーヴァテイル・オリジン、純粋なレーヴァテイルである「β純血種(ベータじゅんけっしゅ)」、及び人間との混血である「第三世代」の3つに大別される。

レーヴァテイル・オリジン
塔の管理者として作られた特別なレーヴァテイル。作成された順番に、「エオリア」「フレリア」「ティリア」の3人が存在する。その目的に沿うように遺伝子(明確には不明)を調整された完全な人工生命体として生み出されたため、人間のような両親は存在しない。18歳程度で成長が止まるように遺伝子がプログラムされているため、それ以上の老化が進むことはなく、また生命維持が塔によって行われているため、塔が崩壊しない限りは永遠に生き続ける(現行最高齢は「エオリア」であり、その年齢は739歳[1](+2歳)[2])。レーヴァテイルとしての能力は非常に高い。また後述のコスモスフィアの概念が発明される前に生み出されたため、β純血種や第三世代と違って、精神世界にコスモスフィアを持たない。インストールポイントは3体共通で腰にある。尚、ゲーム中度々話しに出てくる『エル・エレミア三謳神』とは、彼女たちレーヴァテイル・オリジンの事である。

β純血種
レーヴァテイル・オリジンのクローン体。不老ではあるもののオリジンのように不死ではなく、およそ150年ほどの寿命を持つ[3]。但しオリジンと同様に、約18歳で成長が止まるように遺伝子がプログラムされているため、それ以上の老化が進むことはなく、死ぬまでほとんど同じ姿を保ち続ける。

β純血種であるミュールは作られてから400年近く経過した今も生存しているが、彼女の肉体は生まれてから30年ほどで封印されているため、β純血種の寿命を超えて生き続けているとは必ずしもいえない。ソル・シエール世界で現存するβ純血種は、彌紗と封印されているミュール、そしてプラティナにいるごく少数のβ純血種だけである[4]。メタ・ファルス世界においては、エオリアと違いフレリアがその技術を伝えなかったため幻の存在とされており、現在の第三世代は第一期及び第二期にソル・シエールから移り住んだβ純血種達の子孫にあたる。

第三世代
人間とレーヴァテイルの混血の女性の中で、人間として生まれた後にレーヴァテイルの能力が発症した者。一般的に、その能力は「β純血種」に劣り、個体差も大きく、ソル・シエールにおいては六角版試験でその資質によってA~Dのランクで分類される。またレーヴァテイル・オリジンやβ純血種と異なり、人間と同様に成長し老化する。レーヴァテイル質が発症するとそのレーヴァテイル質が人間としての生命力を奪うようになり、寿命が極端に短くなるので、延命のために「ダイキリティ」と呼ばれる延命剤を定期的に摂取する必要がある。「ダイキリティ」を全く摂取しなかった場合、最長でも20年程度しか生きることができない。

延命剤
レーヴァテイルは中核三角環の紡ぐ詩である導体D波によって肉体を構成しているが、オリジンやβ純血種と異なり、第三世代は中核三角環を持たないため、NEE(レーヴァテイル生命維持機構)が人間としての生命力である定常H波を魔力である導体D波に変換して中核三角環の紡ぐ詩の代用としてしまう為、第三世代は極めて短命となるが、特性のない定常H波の塊である延命剤を投与することで、NEEが生命力を奪う事を避けて延命剤から優先的に定常H波を補充させる事で、通常の人間並みの寿命を保つことが可能となる。尚、延命剤には軽延命剤『トランキリティ』と重延命剤『ダイキリティ』の2種が存在し、一般に延命剤という場合は後者の『ダイキリティ』を指す。ソル・シエール世界(プラティナ及びイムフェーナを除く)では、ダイキリティを大量生産できるのは教会と天覇だけであり、これらの組織に所属すれば無償で延命剤を受け取ることができる一方、市場では高額で取引されている。このため、第三世代は教会か天覇に所属することが一般的となっている。メタ・ファルス世界では、ダイキリティは初代澪の御子インフェルによって発見され、その後大鐘堂が無償で支給している。配給は中央のパスタリアのみならず辺境のリムまで行き届いており、第三世代が生活しやすい環境となっている[5]。

インストールポイント
レーヴァテイルの身体の表面に必ず存在する、紋章のような痣のある箇所。どこに表れるかは、個々のレーヴァテイル毎に異なる。グラスノ結晶のインストールや第三世代に対する延命剤の投与は、このインストールポイントを通じて行われる。生存に関わる重要な箇所であり、レーヴァテイルは信頼した相手にしかインストールポイントを曝さない。


作中においては原則として「し」ではなく「うた」と読む。歌唱、歌詞、ヒュムノス語による呪文のことを総じて指す。

詩魔法
レーヴァテイルが使用可能な魔法。ヒュムノス語と呼ばれる言語で表された呪文を唱えることで発動し、戦闘においては強力な武器となる。一般的な詩魔法は、レーヴァテイルとそのパートナーが、後述のダイブという行為を行うことによって紡がれる。従ってレーヴァテイルが詩魔法を紡ぐには、パートナーとの信頼関係が非常に重要となってくる。一部例外として、ダイブをせず現実世界においてレーヴァテイル自身が一人で紡ぐことも確認されているが、これはレーヴァテイルの心が、極度に揺さぶられた場合にのみ発生する、非常に稀な現象である。

ヒュムノス
塔を制御するための特殊な詩魔法で、正式名称は「ヒュムノスエクストラクト」。普段はヒュムネクリスタルというものに封じ込められている。一般的な詩魔法と異なり、クリスタルの内部に存在するデバイスに納められた「想い」を、レーヴァテイルにダウンロードすることによって、謳うことが可能となる。基本的にはヒュムノスのインストールには、「ヒュムネコード」と呼ばれるコントロールキーが必要であり、特定のレーヴァテイルにしかダウンロードできない(ただしI.P.Dレーヴァテイル用の物は、詩サーバーの違いもあって一切のヒュムネコードを必要とせず、I.P.Dレーヴァテイルもヒュムネコードを持たない)。 しかし、この力のため、レーヴァテイルの存在は重宝されて、過去にはレーヴァテイルを介さずに直接ヒュムノスを使用する技術もあったようだが、その技術は過去二度に渡る災厄によって失われてしまっている(シュレリアが参戦後に、ヒュムネクリスタル「パージャ」が謳う丘に保管されていた経緯を語る場面から推測できる)。

ヒュムネコード
塔が個々のレーヴァテイルを一意に識別するために用いられる識別子。ヒュムノスのダウンロードの儀式の際に、認証情報として用いられる。レーヴァテイル・オリジン及びβ純血種のヒュムネコードは、塔のデータベースに登録されているが、第三世代のヒュムネコードは、登録されていない。従って通常第三世代は、ヒュムノスを謳うことが出来ない。

しかしながら実際には、作品中において複数の第三世代レーヴァテイルがヒュムノスを謳っている。これに関してはそれぞれの場合ごとに、以下のような異なる理由付けがなされている。
第1作に登場したオリカ・ネストミールの場合は、スペクトラム遺伝子の形状がβ純血種であるミュールのそれに酷似しており、その結果塔が彼女のヒュムネコードをミュールのそれと誤認識したために、ヒュムノスを謳うことが出来たとされている。
第2作に登場した瑠珈・トゥルーリーワースの場合は、焔の御子の証であるDセロファンをインストールされた結果、レーヴァテイル・オリジンであるフレリアと同一のヒュムネコードを持つようになったため、ヒュムノスを謳うことが出来たとされている。
同じく第2作に登場したクローシェ・レーテル・パスタリエの場合は、I.P.Dである彼女が謳うヒュムノスは、インフェル・ピラを制御するためのものであり、認証形式などが塔を制御するためのヒュムノスとは異なるため、ダウンロードにヒュムネコードは不要とされている[6]。

コスモスフィア
レーヴァテイルの心の中に存在する精神世界。顕在意識・深層意識のレベルを反映して階層構造となっている。その世界観は個々のレーヴァテイル毎に大きく異なる。またコスモスフィア内部では、人格の異なる側面を反映する形で、異なる性格を持つ複数の本人が登場することがある。「ダイブ」はこのコスモスフィアに干渉する行為である。本人が望まない相手からの干渉や、本人が望まない深い階層への干渉を阻止するために、コスモスフィア内部には「心の護(こころのもり)」と呼ばれる世界の守護者が存在する。但しI.P.D.に感染すると心の護が消滅する。

コスモスフィアは詩魔法のサーバ(一般にはアルトネリコ、I.P.D.はインフェル・ピラ)に用意されたレーヴァテイルの意識をつかさどるプライベート空間である。一般的には全9層からなり、第1層?第5層が表層意識、第9層が深層意識となる。各階層に必ずある「いのちの塔」は塔とレーヴァテイルを直結する。I.P.D.はその性質上第8層、第9層は他のI.P.D.との境界が存在しない(ただし、メタファリカで大陸を紡ぎ、インフェルピラが大地の心臓として機能を始めると、第8第9層の境界は再生される)[要出典]。

ダイブ
他者がレーヴァテイルのコスモスフィアに干渉する行為。世界各地に存在する「ダイブ屋」と呼ばれる施設を利用することによって可能となる。レーヴァテイルにとっては自分の内面を曝け出すこととなるため、本来ダイブは強い信頼関係で結ばれたパートナーにしか許さない行為である。そのためダイブを行うには、レーヴァテイルとパートナーの信頼関係の深さを表す値であるダイブポイント(DP)が一定量必要であり、パートナーがコスモスフィアで行動を起こすとダイブポイントが消費される。ダイブによってパートナーがレーヴァテイルのコスモスフィアに干渉すると、以下のような結果が得られることがある。

コスモスフィア内部でのパートナーの行動により、レーヴァテイルが抱えている悩みや葛藤が昇華されると、パラダイムシフトが発生して、コスモスフィアのさらに深い階層へとダイブすることが出来るようになる。
レーヴァテイルがコスモスフィア内部で詩魔法を紡ぐと、現実世界でもその詩魔法を使えるようになる。
パラダイムシフトが発生してコスモスフィアの1つの階層が完了すると、その階層でレーヴァテイルが着ていたコスチュームを、現実世界でも着ることが出来るようになる。

テル族
シリーズの舞台となる星に遠い昔から存在する、人間とは別の種族。麻色の肌に角や尻尾といった身体的特徴を持ち、寿命も200年程度と人間よりも長い。詩魔法とは全く別の特殊な術を使うことが出来、用いる術の種類により12の派閥に分かれる。かつて彼らが持つ知識と技術は、塔の建設に大きく貢献した。現在ソル・シエール世界においては、イム・フェーナという街にまとまって住み、人間との積極的な交流を避けている。一方、メタ・ファルス世界では人間と共存しその技術力を生かしてダイブ屋を稼業として営んでいる者も多い。また人間やレーヴァテイルと混血のテル族も存在する。

2009年02月06日

山県氏(やまがたし、やまがたうじ)は日本の氏族

山県氏(やまがたし、やまがたうじ)は日本の氏族。正確な表記は「山縣」。主な系統は下記の流れである。
ミネア あさひか ストレ マッチ アック 繊細 せいじゅ パワーサプ ランドロ ステイ ヒート メキシコ エグゼ べにあか センリョウ アーバン オーバ ロッキード やっこだこ パターン カピバラ アフガン サーボモ メリー 望郷の月 じゅご リンガ モルデ パトス キャンサド ティン デジタル ネクスト ノーショー コンファー ビオチ クレーション フィーマ カーラジオ バビア ナビノニ やまんば デーゲーム 世界の家 ブービー ドゥク サイダ ジャージー ベンダー フレーター

美濃国山県郡発祥の清和源氏多田頼綱流の族は美濃山県氏
上記美濃山県氏の系譜を引く甲斐武田氏家臣の族は甲斐山県氏
安芸国山県郡発祥の凡姓山県氏の族、美濃山県氏から入った族は安芸山県氏

美濃山県氏は、美濃国山県郡発祥の族で、清和源氏頼光流多田頼綱の三男であった源国直が同地に居住し「山県」を号したことに始まる。その後、国直の美濃の地盤は長男の国政に継承され、次男の国基は摂津国能勢郡を地盤とし、能勢氏の祖となった。美濃の地盤を引き継いだ国政は『尊卑分脈』の記述によると源頼政の養子となったとされているが、この国政以降、山県氏からは蜂屋氏・落合氏・清水氏・福島氏・平野氏・関氏など多くの庶流を輩出した。主な家紋は桔梗である。

なお同時期に同じ摂津源氏である源国房(初代国直の叔父にあたる)に始まる一族が山県郡からさほど遠くない土岐郡に地盤を築き、後の土岐氏族へと発展しているが、これは先祖にあたる源頼光・頼国が共に美濃守に任じられており、これと関連して当時の摂津源氏が美濃に進出する足掛かりを有していた為であると考えられる。

鎌倉時代以降は御家人に列したが、承久3年(1221年)に後鳥羽上皇が倒幕の兵を挙げると(承久の乱)山県氏も一族を挙げて京方として戦い複数の戦死者を出した。しかし、その後も美濃国内に一定の勢力を保持し、南北朝時代となると、同流の土岐氏が美濃の守護となりその風下に立つこととなったが、山県氏も北朝方として行動していたと思われ、一族の山県国兼が室町幕府の内談衆(引付衆)一番手奉行として名が見えるなどしている。

戦国時代になるとその勢力を弱め、室町時代中期になると最終的に所領を棄て、甲斐武田氏を頼って落ちていった。これにより美濃山県氏は滅亡したが、それより前に安芸国に配流された山県三郎なる人物が安芸で勢力を拡大した一族、甲斐に逃亡した一族、それぞれ武田氏の家臣として繁栄した。

甲斐山県氏
上記の美濃山県氏の一族、山県家信が甲斐武田氏を頼り、家臣となった。しかし山県家信の孫、山県虎清の時に主君武田信虎に諫言して成敗され断絶、後に飯富虎昌の弟とも甥とも言われる飯富昌景が山県家の名跡を継いだ。山県昌景は名将として知られ、川中島の戦いや駿河侵攻で武功を挙げ、永禄12年(1569年)には駿河国江尻城代に任じられた。また内政にも優れており、武田家の重臣として活躍した。

1575年の長篠の戦いで昌景が討死。嫡男の山県昌次も討死する事態となった。家督は次男の山県昌満が継いだが、1582年の織田信長の武田征伐により、捕らえられ処刑された。その後、一族は散り散りとなり、上杉氏に仕えた者、越前松平家の家老となり越前山県氏の祖になった者、大坂の役で討死した者、徳川家臣となった者、帰農した者等が居る。子孫には山県大弐等を出し、現在もその家系は続いている。

安芸山県氏
平安時代の末期、山県三郎為綱が安芸国壬生荘に下向し、その領主となったことが安芸山県氏の始まりとされる。これ以前に山県郡志道原荘を領する在地豪族で、大国主命の神裔を称する凡氏の庶流に山県氏もいたが、その系譜と源姓山県氏との関わりは不明である。山県為綱は源平合戦では源氏側に付き、その戦いぶりを賞された。

南北朝時代になると、安芸山県氏は毛利親衡らと共に足利直冬側として行動するが、直冬の勢力低下に伴い、北朝に帰順している。その後は安芸武田氏の家臣として活動し、大内氏や毛利氏と戦った。1522年に当主の山県信春は毛利元就の攻撃を受け、居城の壬生城は落城。残った一族の山県元照は、毛利氏の家臣となった。山県氏は安芸武田氏の水軍としても活躍し、毛利元就への従属後は毛利水軍の一員として各地を転戦している。その一族と思われる山県長茂は吉川経家の小姓となり、1581年の鳥取城の戦いにも参加した。吉川経家の切腹にも立ち会った長茂は1644年に「山県長茂覚書」を書き遺し、経家の最期の様子を現在に伝えている。

江戸時代にも山県氏は長州藩士として続き、後に明治の元勲・山縣有朋を出している。

山県昌景の安芸山県氏出身説
江戸時代の萩藩閥閲録では、山県昌景は安芸山県氏の一族・山県重秋の息子で、昌景の母は飯富虎昌の姉とされる。継母との折り合いが悪く、出奔した昌景が叔父を頼り甲斐に赴いたという。萩藩閥閲録は資料としての価値が非常に高く、山県昌景が飯富虎昌と余りにも年齢が離れているため、この説が近年有力視されている。

系譜
<初期美濃山県氏系譜>  太線は実子、細線は養子。
       源頼光
       ┃
      頼国
       ┣━━━━━━━┓
      頼綱(多田氏) 国房(土岐氏)
        ┣━━━━━━━┳━━━━━━━┓
        明国  仲政(馬場氏) 国直(山県氏)
          ┃    ┣━━━━━━━┓
            頼政  国政   国基(能勢氏)
             |
               国政
    ┏━━━━━━━╋━━━━━━━┳━━━━━━━┓
      飛騨瀬国成 山県頼清 落合国時 清水頼兼

2009年01月22日

民族浄化

民族浄化(クロアチア語・ボスニア語・セルビア語: етничко чишћење / etničko čišćenje、英語:ethnic cleansing)は、複数の民族集団が共存する地域において、ある民族集団を強制的にその地域から排除しようとする政策。直接的な大量虐殺や強制移住のほか、各種の嫌がらせや見せしめ的な暴力、殺人、組織的強姦、強制妊娠などによって地域内からの自発的な退去を促す行為も含まれる。また、直接的暴力を伴わない同化政策も広義には民族浄化に含まれるという見方もある。

第二次世界大戦時のナチス・ドイツの傀儡ファシスト国家であったクロアチア独立国の教育大臣ミレ・ブダクによる発言「われわれは、セルビア人の3分の1を殺害し、3分の1を追放し、3分の1をカトリックに改宗させてクロアチア人にする」は、セルビア人に対する民族浄化を示唆した発言であり、それぞれ大量虐殺、強制移住、同化政策による特定民族の根絶を意図していた。

「民族浄化」は、1990年代に内戦中の旧ユーゴスラビア地域のメディアに頻繁に使用されたクロアチア語、ボスニア語およびセルビア語の「етничко чишћење / etničko čišćenje」を翻訳したもので、1992年頃から世界の主要メディアでも広く使用されるようになった。

語源に関しては諸説あるが、早ければ第二次世界大戦時に使われ始めたものと考えられる。第二次世界大戦時代、ユーゴスラビア領内にはクロアチア人の民族主義者ウスタシャによって、ナチスの傀儡国家「クロアチア独立国」が建国された。ウスタシャとクロアチア独立国の当局は、ナチスと協力して域内のユダヤ人、セルビア人、ロマなどの絶滅や追放を目指した[2]。

多民族国家であったユーゴスラビア連邦でも、1980年代、ヨシップ・ブロズ・ティトーの死後、民族主義的な感情の高まりにしたがって、自民族は「民族浄化」の犠牲者であるとする論調で、異民族に対する憎悪をあおる場面で頻繁に用いられるようになった[2]。各民族に対等の権利を保障するユーゴスラビアの制度によって、数の上では最大であるセルビア人の地位は相対的に低くなり、また歴史的にセルビア人が多く住んでいた地方の多くがセルビア共和国の外に置かれた。また、コソボではセルビア人の流出による人口減少と、多産社会のアルバニア人の人口増大によって人口比率は大きく変化していた。こうしたことに対する不満と、第二次世界大戦中にナチス、ファシスト政権と協力関係にあったクロアチア人、アルバニア人を結びつけ、「セルビア人は過去に民族浄化の被害者であった」、「いままたセルビア人に対する民族浄化が進められている」といった論調で異民族に対する憎悪を高めていた。

1990年代前半に一連のユーゴスラビア紛争が始まると、クロアチアやボスニア・ヘルツェゴビナのムスリム人(ボシュニャク人)によって、敵対するセルビア人の残酷性を世界にアピールする目的のプロパガンダとして発信された。ロイ・ガットマン(Roy Gutman)等の西側諸国のメディアなどがこれを大規模に取上げたことにより、「民族浄化」の語は世界的に知れ渡るところとなった[2]。

ユーゴスラビア紛争における「民族浄化」
1990年代の一連のユーゴスラビア紛争では、「民族浄化」に該当する多くの事例が見られた。

クロアチア紛争では、ヴコヴァルがセルビア人勢力の手におち、多数のクロアチア人市民が殺害されたヴコヴァルの虐殺をはじめとする、異民族に対する虐殺や、迫害による追放がセルビア人、クロアチア人の双方によってひきおこされた。クロアチア紛争を最終的に解決した「嵐作戦」では、クロアチア領内で一方的に作られたセルビア人国家クライナ・セルビア人共和国がクロアチア軍によって制圧され、20万人を超えるセルビア人がクロアチア領を去り、ボスニアやセルビアへと脱出した。

1992年から始まったボスニア・ヘルツェゴビナ紛争では、紛争が始まる前から自治体当局は次第に民族主義者にのっとられ、異民族の解雇、嫌がらせ、武器の押収に始まり、やがて大量殺害や強制収容、大規模な追放といった「民族浄化」が各地で横行した[2]。こうした蛮行はセルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人のいずれもが当事者となり、また被害者となっていた。特に、8000人以上が殺害されたスレブレニツァの虐殺は、旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷や国際司法裁判所によって「ジェノサイド」であると認定された。
サイコロ セリクー クイズ ビアンコ ナビ淡竹 チャーイ バッスル グリーン ナルコ スランプ カナメモチ しおで 満月アナタ ジバン フィーバ ジーメン コシア 虹の橋 透明人間 アスキー プラスタ パイプオ ゲスケル 鯉のぼり ガラシ シーリング スイート ハネムーン 北の旅人 ワイファイ スキッド ビンゲン ション マサキ トンキロ レシー サヘル スリット レッシブ ナイス ブローチ フレー リスト ナビメリノ ジャズ フェンス りっさ サード だむら ターゲット

1996年から始まったコソボ紛争では、コソボの独立を求めるアルバニア人民族主義のの武装勢力・コソボ解放軍によるセルビア人やロマなどに対する大量虐殺や強制収容、臓器の売買が行われた。他方で、ユーゴスラビア連邦軍やセルビアから流入したセルビア人の民兵組織によって、アルバニア人などの虐殺と大規模な強制追放が行われた。80万人を超えるアルバニア人難民、20万人のセルビア人難民がコソボ域外に避難した。1999年以降セルビアの統治が及ばなくなったコソボではセルビア人が殺害・暴行されたり、行方不明になる事件が多発しており、コソボを去ったセルビア人の帰還は進んでいない。

2009年01月15日

四庫全書(しこぜんしょ、Sìkù quánshū)

バット ジュズダマ はないかり マグカップ しょうぶ ブロックバス ゲンスト マジカ カムアウ 国内山芋 スケーラ ゼロサム テナン ヨルムン こだま NEW世界 スカト オポッ フォーク シャンプー カヤック ネイチャー バイト ゲンタマ クヌギ リドール マット キャンバ ランド スリッパ てのひら ムーラン ヌバック リップミル ハーケン 高原の月 きつきみ ブイアイピ リトアニ キニン 笠だけ レサー モント サンザシ あかさ スダイヤ いたけ ツーピース ワカ フィリピン

四庫全書(しこぜんしょ、Sìkù quánshū)とは、中国 清朝の乾隆帝の勅命により編纂された、中国最大の漢籍叢書である。集書の詔勅が発せられたのが1741年(乾隆6年)で、事業が発足したのが1772年(乾隆37年)、その完成は1781年(乾隆46年)、全般著書は経、史、子、集4部に 44類、3503種、36000冊、230万ページ、10億字になっている。(部数・巻数の数え方には数種あり)。実際に編纂に参加して正式に名前が登録された文人学者だけで400人を超え、筆写人員は 4000人余りである。

全体の構成が隋以来の四部分類(経・史・子・集)によって分類整理されているため、四庫全書という。四部の書の表紙は、緑色(経部)・赤色(史部)・青色(子部)・灰色(集部)に色分けされた。広範な資料を網羅しており、資料の保存に多大な貢献をした反面、清朝の国家統治にとって障害となるような書物は、禁書扱いされ、収録されなかった図書は3,000点にのぼるという(代表例として、北方王朝に抵抗した南宋遺臣の著書である『十八史略』が挙げられる)。また、たとえ収録されていても、内容を改竄したり削除したりしている例が見られるため、扱いには注意が必要である。

全書の正本7部、副本1部が浄書されて、正本は、文淵閣(北京・紫禁城)・文源閣(北京・円明園)・文津閣(熱河・避暑山荘)・文溯閣(瀋陽)・文匯閣(揚州)・文宗閣(鎮江)・文瀾閣(杭州)に、それぞれ収められた。また副本は、翰林院に収蔵された。

現存するのは、北京図書館(文津閣)・甘粛省図書館(文溯閣)・浙江省図書館(文瀾閣)・台湾故宮博物院(文淵閣)の4部である。文源閣本は、1860年のイギリス・フランス連合軍による北京攻撃により、円明園と共に焼失した。文宗閣本は、1842年のアヘン戦争で破壊された後、1853年の太平天国軍の鎮江攻撃によって消滅した。文匯閣本は、1854年の太平天国軍の揚州攻略時に破壊された。文瀾閣本は、1861年の太平天国軍の杭州攻略時に蔵書の大半が失われたが、その後、丁氏兄弟の尽力で復旧することに成功した。

四庫全書総目提要(しこぜんしょそうもくていよう)は、中国最大の解題目録である。清朝の乾隆帝の奉勅撰、全200巻。1782年(乾隆47年)成立。或いは「四庫全書総目」ともいう。

『四庫全書』の編纂の過程で作成された、経・史・子・集の四部分類に区分した各文献の提要(解題)をまとめたもの。四部を45類(経部10類・史部16類・子部14類・集部5類)、67子目に編制している。『四庫全書』に収録された文献、および未収録の文献(「存目」書)もあわせて、合計10,254種、172,860巻の、春秋戦国時代より清朝初期に至る文献が収録されている。

四庫全書の各収録書の巻頭にも、本書に収録される提要が附されているが、本書の文章との間には異同がある場合も見られる。

また、本書の四部分類法は、歴代の分類法を集大成したものであり、その後の蔵書目録の模範的な分類基準となった。この点で、本書の成立は、中国の書誌学上の画期的な出来事とされている。